日本酒の酵母と発酵
日本酒造りにおける酵母の働きや、並行複発酵、三段仕込みなど、世界に誇る発酵の技術をわかりやすく解説。
酵母という小さな職人
酒蔵を見学したとき、杜氏がタンクを覗き込みながら言った。
「この泡を見てください。酵母が元気に働いている証拠です」
ぷくぷくと湧き上がる泡。タンクの中で何かが起きている。でも、酵母は目に見えない。顕微鏡でしか見えないほど小さい生き物が、米を酒に変えている。
日本酒造りは「発酵」の技術だ。麹と酵母という二人の小さな職人が、人間の手助けを受けながら、透明な液体をアルコールに変えていく。この記事では、その仕組みを追いかけてみたい。

酵母の仕事
酵母は糖を食べて、アルコールと二酸化炭素を出す。
単純に聞こえるが、これが酒造りの核心だ。糖がなければアルコールは生まれない。酵母がいなければ発酵は起きない。
日本酒に使われる「清酒酵母」は、ワインやビールの酵母とは別物。アルコール耐性が高く(18〜20%まで耐える)、低温でもしっかり働き、華やかな香り成分を生み出す。日本酒独特のフルーティーな香りは、酵母が作っている。
並行複発酵という離れ業
日本酒の発酵には、世界でも珍しい特徴がある。
「糖化」と「発酵」が同時に進行する。
ワインは簡単だ。ブドウには最初から糖がある。だから酵母を入れれば、すぐに発酵が始まる。
ビールはもう少し複雑。麦芽のでんぷんを糖に変えてから、別のタンクで酵母による発酵を行う。糖化と発酵が、別々の段階で起きる。
日本酒は違う。米のでんぷんを麹が糖に変え、その糖を酵母がアルコールに変える。この二つのプロセスが、同じタンクの中で、同時に進行する。
だから「並行複発酵」と呼ばれる。

この方式のおかげで、日本酒は醸造酒の中で最も高いアルコール度数(原酒で20%近く)を達成できる。糖が尽きる前に次の糖が生まれ続けるから、発酵が長く続くのだ。
三段仕込みの理由
酒母(酒の元になる酵母液)に、麹と蒸米と水を加えて発酵させる。このとき、一度に全部入れると失敗する。
なぜか。酵母が薄まりすぎて、雑菌に負けてしまうから。
だから、3回に分けて加える。「三段仕込み」と呼ばれる。
初添(はつぞえ)——最初の仕込み。酵母の環境を整える。
踊り——丸一日休ませる。酵母が増殖するための休息日。ここで酵母が十分に増えないと、次の段階がうまくいかない。
仲添(なかぞえ)——2回目の仕込み。発酵が本格化する。
留添(とめぞえ)——最後の仕込み。酒の骨格が決まる。
この工程を4日間かけて行う。焦ってはいけない。酵母のペースに合わせる。
発酵の時間と温度
発酵にかかる日数は、酒の種類によって違う。
普通酒は18〜25日。吟醸酒は25〜35日。大吟醸は40日以上かかることもある。
温度が低いほど、発酵はゆっくり進む。ゆっくり進むほど、繊細な香りが生まれる。だから大吟醸は低温で長期間発酵させる。
杜氏が言っていた。「急いで作った酒は、味が荒い。ゆっくり作った酒は、角が取れている」
発酵温度は、普通酒なら15〜18℃、吟醸酒なら10〜13℃くらい。真冬の蔵が冷蔵庫のように寒いのは、この温度を維持するためだ。

酵母の種類で味が変わる
日本醸造協会が配布している「協会酵母」というものがある。番号で呼ばれる。
6号酵母は穏やかな香り。秋田の新政酒造から分離された。クラシックな純米酒に向く。
7号酵母は長野の真澄から分離された。香りと味のバランスがいい。吟醸酒ブームの礎を築いた酵母。
9号酵母は熊本から。バナナやメロンのような香りを出す。吟醸酒の定番。
1801号酵母はリンゴのような香りを出す。大吟醸向き。
同じ米、同じ水、同じ杜氏でも、酵母が違えば別の酒になる。酵母選びは、酒の個性を決める重要な判断だ。
蔵付き酵母という選択
協会酵母ではなく、蔵に昔からいる野生酵母を使う蔵もある。「蔵付き酵母」と呼ばれる。
新政酒造は、自社で6号酵母のオリジナル株を復活させて使っている。蔵の天井や柱に棲みついた酵母を採取して培養する蔵もある。
蔵付き酵母を使うと、その蔵でしか出せない味になる。ワインでいう「テロワール」のような概念だ。
ただし、野生酵母は扱いが難しい。発酵が不安定になることもある。協会酵母の方が品質は安定する。
発酵を見守る
杜氏や蔵人は、毎日タンクの様子を見に行く。温度、泡の状態、香り、糖度、pH。あらゆるデータを取りながら、発酵の進み具合を確認する。
数値だけでは分からないこともある。泡の立ち方、もろみの色、漂う香り。経験を積んだ杜氏は、五感で発酵の状態を読み取る。
「この泡は元気がないな。温度を少し上げよう」 「香りが開いてきた。そろそろ搾り時かもしれない」
科学と経験の両方が必要。データを見ながら、最終的には人間が判断する。
上槽:酒を搾る
発酵が終わったら、もろみから酒を搾り取る。「上槽(じょうそう)」と呼ばれる工程だ。
袋搾りは、もろみを布袋に入れて吊るし、自然に滴り落ちる酒を集める。時間がかかるが、繊細な味わいになる。大吟醸など高級酒に使われる。
ヤブタ搾りは機械式。効率がよく、品質も安定する。多くの蔵が使っている。
遠心分離機は最新の技術。もろみを回転させて、酒と酒粕を分ける。圧力をかけないので、雑味が出にくい。

目に見えない職人への敬意
日本酒を飲むとき、酵母のことを思い出してほしい。
目に見えない小さな生き物が、米を酒に変えてくれている。人間は彼らの仕事を手助けしているだけだ。温度を整え、雑菌から守り、酵母が働きやすい環境を作る。
発酵という現象は、完全にはコントロールできない。だから、毎年の酒は微妙に違う。同じ蔵の同じ銘柄でも、年によって味わいが変わる。
それが日本酒の面白さでもある。自然と人間の共同作業。その結果が、グラスの中の一杯になる。
さらに詳しく知りたい方は日本酒の作り方の記事もどうぞ。
酵母について詳しくは酵母の系譜をご覧ください。