日本酒と水:軟水と硬水で変わる味わい
日本酒の80%は水でできている。仕込み水の硬度が酒質に与える影響、名水と呼ばれる水の特徴、そして水が生み出す地域の個性を解説。
日本酒と水:酒の八割を占める存在

「うちの水は軟水なんです」
酒蔵を訪ねると、杜氏がまず水の話をすることがある。米でも酵母でもなく、水。不思議に思うかもしれないが、理由は単純だ。できあがった日本酒の約80%は、水だからである。
残りの20%ほどにアルコールや糖分、アミノ酸、有機酸といった成分が含まれ、あの複雑な味わいを形づくっている。だが量でいえば、圧倒的に水が多い。だからこそ、どんな水を使うかで酒の表情が変わる。この記事では、水が日本酒の味をどう左右するのか、その仕組みを少していねいに追いかけてみたい。
仕込み水とは何か
工程ごとに水が関わる
日本酒造りは、最初から最後まで水と一緒に進んでいく。
米を洗う「洗米」の水、米に水を吸わせる「浸漬」の水、蒸した米を冷ます水、そして麹や酒母、醪(もろみ)に加える水——これらをまとめて「仕込み水」と呼ぶ。洗米や浸漬の段階では、米が吸い込む水の量や温度が、その後の蒸し上がりや溶け方を左右する。ここで質の悪い水を使えば、雑味となって最後まで残ってしまう。
なかでも直接的に酒質へ響くのが、醪に加える水だ。醪のなかで酵母は水に溶けた栄養を取り込みながら発酵していく。つまり水は、単なる薄め役ではなく、発酵の現場そのものを支える存在なのだ。
割水という最後の調整
搾ったばかりの日本酒は、アルコール度数が20%近くある。これに水を加えて15〜16%前後に整える工程を「割水(わりみず)」という。
このとき使う水も、多くの蔵では仕込み水と同じものを使う。せっかく醸した酒に、性質の違う水を混ぜれば味が崩れるからだ。割水は最後の味の微調整であり、ここでも水の質が問われる。近年は割水をしない「原酒」も人気だが、それは水を加えないぶん、仕込み水の性質がそのまま前面に出る酒だとも言える。
米の何十倍もの水を使う
1升(1.8L)の日本酒を造るのに、その何倍もの水が必要になる。
洗米から仕込み、そして瓶や道具を洗う水まで含めると、米の重量の30〜50倍もの水を使うと言われる。だから酒蔵は、良質で豊富な水が得られる場所に建てられてきた。名醸地と呼ばれる土地の多くが、名水の湧く場所と重なっているのは偶然ではない。
硬度が発酵を左右する
硬度とは何か
水の「硬度」とは、水に溶けているカルシウムとマグネシウムの量を、炭酸カルシウムの重さに換算して1リットルあたりのミリグラム(mg/L)で表した数値だ。
WHO(世界保健機関)の基準では、おおむね硬度60mg/L未満が軟水、60〜120mg/Lが中程度の軟水、120〜180mg/Lが硬水、180mg/L以上が非常な硬水とされる。ただし日本酒の世界では、これより低い硬度50mg/L前後を境に「軟水」「硬水」と呼び分ける習慣がある。日本の水はもともと軟水が多いため、酒造りの現場では独自の感覚で線を引いてきたのだ。
ミネラルは酵母の栄養になる
なぜ硬度が酒質を変えるのか。鍵はミネラルにある。
カルシウム、マグネシウム、カリウム、リンといったミネラルは、酵母や麹菌にとって栄養になる。硬水はこれらを多く含むため、酵母が元気に働き、発酵が活発に進む。発酵が旺盛だと糖はどんどんアルコールに変えられ、糖が残りにくい。結果として、辛口でキレのある、骨格のしっかりした酒になりやすい。
一方の軟水はミネラルが少ない。栄養が控えめなぶん酵母はゆっくりと働き、発酵は穏やかに進む。糖が残りやすく、まろやかで柔らかい、旨味を感じる酒質になる傾向がある。
もっとも、これはあくまで傾向だ。軟水でも技術次第で辛口の酒は造れるし、硬水でもまろやかな酒はある。水は重要な一要素だが、最終的な酒質は米、酵母、温度管理を含めた総合的な技で決まる。
灘の男酒、伏見の女酒
宮水がつくる灘の酒
硬水の酒を代表するのが、兵庫県・灘の酒だ。
灘五郷を支えてきたのが「宮水(みやみず)」と呼ばれる名水である。天保11年(1840年)頃、櫻正宗の蔵元・山邑太左衛門が発見したと伝えられる。彼は西宮と魚崎の二か所で酒を造っていたが、同じように造っても西宮の酒のほうが良い。その原因が西宮の井戸水にあると突き止めたのが、宮水発見の逸話とされる。
宮水は硬度がおよそ180mg/Lと高く、カルシウムやカリウム、リンといったミネラルを豊富に含む。この栄養のおかげで発酵が力強く進み、辛口で引き締まった酒になる。この酒質が「灘の男酒」と呼ばれてきた。加えて宮水は、酒に有害な鉄分がほとんど含まれない。だからこそ雑味のない、輝くような酒が生まれる。
伏見のやわらかな水
灘と対照的なのが、京都・伏見の酒だ。
伏見に湧く「御香水(ごこうすい)」は名水百選にも選ばれた水で、硬度はおよそ60〜80mg/Lと、灘に比べてずっと穏やか。適度なミネラルを含む中硬水寄りの水質で、発酵がゆるやかに進む。そのため、まろやかできめ細かい、上品な酒に仕上がる。これが「伏見の女酒」と呼ばれる所以だ。
「灘の男酒、伏見の女酒」という言い回しは、この水の硬度差から生まれた。力強い灘の酒を男に、やわらかな伏見の酒を女にたとえた、江戸時代以来の伝統的な表現である。
各地の水がつくる個性
灘と伏見は両極端な例だが、日本各地の名醸地もそれぞれの水に支えられている。
新潟の淡麗な酒質は、雪解け水を源とする軟水と、寒冷な気候による低温発酵の合わせ技から生まれる。中国地方の水は花崗岩の地層を通って軟水になりやすく、広島の柔らかな酒につながる。東北の清冽な伏流水、北陸の雪をたたえた地下水——土地の地質と気候が、水の硬度とミネラルの構成を決め、それが酒の輪郭を形づくっていく。同じ米、同じ酵母を使っても、水が違えば別の酒になる。それが日本酒の面白さでもある。
鉄分とマンガンは嫌われる
ミネラルのなかでも、鉄分とマンガンだけは歓迎されない。
鉄分が多いと、酒が褐色に変色し、香りも損なわれる。「鉄くさい」「日光臭」といった欠点につながるのだ。マンガンも同様に、光と反応して着色や劣化を招く。宮水が名水とされる大きな理由の一つが、ミネラルは豊富なのに鉄分が極端に少ない、という絶妙なバランスにある。
そのため仕込み水では、鉄分が少ないことが絶対条件とされる。酒蔵は水質検査を欠かさず行い、鉄分やマンガンの少ない水源を守り続けている。
軟水でも良い酒は造れる
三浦仙三郎の挑戦
かつて、軟水は酒造りに不向きとされていた。発酵が進みにくく、腐造(酒がだめになること)を起こしやすかったからだ。軟水地帯だった広島は、良い酒ができない土地だと思われていた。
この常識を覆したのが、広島・三津(現在の東広島市安芸津)の三浦仙三郎(1847〜1908)である。酒造業を始めた彼は、たびたび酒を腐らせ、大きな損失を出した。原因を探るうち、地元の水が軟水であり、酵母の栄養となるミネラルが乏しいことに行き着く。
百試千改の末に
仙三郎は諦めなかった。ミネラルが少ないなら、その条件に合った造り方をすればいい。麹をていねいに育てて糖化力を高め、醪を低温でゆっくり発酵させる——そうした工夫を積み重ね、1898年頃に「軟水醸造法」を完成させた。
彼が残した「百試千改(ひゃくしせんかい)」という言葉には、失敗を恐れず試し続けた姿勢がにじむ。1907年の全国清酒品評会では、広島の酒が上位を占め、その実力を全国に示した。
この低温でじっくり発酵させる手法は、のちの吟醸造りの土台となった。そのため三浦仙三郎は「吟醸酒の父」と呼ばれている。広島が今も三大銘醸地の一つに数えられるのは、この軟水を味方につけた技術の系譜があるからだ。
水をどう確保し、どう扱うか
井戸水が選ばれる理由
多くの酒蔵は、敷地内の井戸から地下水を汲み上げて使う。
地下水は季節を通じて水温が安定しており、地層でろ過されるため不純物も少ない。理想の水を求めて、地下深くまで井戸を掘る蔵もある。灘の宮水のように、蔵から離れた水源からわざわざ水を運んでくる例もあるほど、蔵は水にこだわる。仕込みの時期になると、水温の低さが低温発酵を助け、雑菌の繁殖も抑えてくれる。
ろ過と成分調整
水源の水をそのまま使う蔵もあれば、目的に応じて手を加える蔵もある。
鉄分やマンガンを取り除くために活性炭でろ過したり、砂ろ過で濁りを除いたりする。軟水にわずかにミネラルを補って発酵を助けることもある。水道水を使う場合は、酵母や麹菌を傷める塩素を必ず除去しなければならない。ただし、手を加えすぎればその水本来の個性は失われる。だから多くの蔵は、処理を必要最小限にとどめ、水源の質そのものを大切にする。
水を意識して飲む
産地から水を想像する
酒の産地を意識すると、水の違いが味として見えてくる。
灘の酒と伏見の酒を飲み比べる。新潟の淡麗な酒と、高知の辛口を比べる。産地ごとの「味の傾向」の背後に、その土地の水があることに気づくだろう。ラベルの産地は、水の性質を推し量るヒントになる。
和らぎ水という習慣
日本酒を飲む合間に飲む水を「和らぎ水(やわらぎみず)」と呼ぶ。
酔いを穏やかにし、口の中をリセットして次の一杯を新鮮に味わうための水だ。できれば軟水のミネラルウォーターや、その蔵の仕込み水があれば理想的。水は日本酒の内側にも外側にも寄り添っている。
まとめ
日本酒の80%は水。この一点が、水の重要性をすべて物語っている。
硬水のミネラルは酵母を活気づけて辛口で力強い酒を生み、軟水は発酵を穏やかにしてまろやかな酒を育てる。灘の宮水と伏見の御香水、そして軟水を克服した三浦仙三郎の技——どれも、水と人の対話から生まれた個性だ。
次に日本酒を選ぶとき、その土地に湧く水にも思いを馳せてみてほしい。一杯のなかには、その水が流れてきた土地の物語が溶けている。