広島の日本酒:軟水醸造発祥の地
「軟水では良い酒はできない」という定説を覆した三浦仙三郎の軟水醸造法。1907年の第1回全国清酒品評会で灘・伏見を抑えた広島の酒が、なぜ吟醸造りの母体になったのかを技術史からたどります。
広島の日本酒:ひとりの醸造家が定説を覆した
日本酒の産地はふつう、風土で語られる。米がいい、水がいい、冬が寒い——。
広島だけは、少し事情が違う。
広島が銘醸地になったのは、恵まれていたからではない。むしろ「酒造りに向かない水」を抱えていた土地が、その不利をひっくり返す技術を自力で開発したからだった。しかもその技術を開発した人物は、完成した手法を秘伝にせず、印刷して同業者に配ってしまった。
「軟水では良い酒ができない」という時代
明治の中頃まで、酒造りに適した水は硬水だとされていた。
理由は理にかなっている。硬水に多く含まれるカリウムやリン、マグネシウムといったミネラルは、酵母や麹菌にとっての栄養源になる。栄養が豊富なら発酵は力強く進み、糖はしっかり酒精に変わり、キレのある辛口に仕上がる。灘の宮水が「日本一の酒造用水」と呼ばれたのは、まさにこの性質による。
裏を返せば、ミネラルの乏しい軟水は発酵が思うように進まない。途中で醪(もろみ)の動きが鈍り、糖が残って甘ったるくなる。雑菌に負けて腐造——仕込んだ酒がまるごと腐ってしまう事故——を起こすこともある。
広島の水は、この軟水だった。安芸津も西条も、花崗岩質の地層を通ってきた地下水で、ミネラル分がきわめて少ない。当時の常識に照らせば、酒造りには最も不向きな土地のひとつだったことになる。
三浦仙三郎、百試千改
その広島で酒を造っていたのが、三浦仙三郎(1847〜1908)である。
安芸津(現在の東広島市安芸津町)の造り酒屋に生まれた仙三郎は、酒を仕込んでは腐らせるという失敗を繰り返した。原因を水に求めた彼は、他所の水を運んでくるのではなく、手元の軟水に合う造り方そのものを作り直すという道を選ぶ。
たどり着いた答えは、逆説的だった。発酵が進みにくいなら、進みにくいことを前提に設計すればいい——低い温度でゆっくり時間をかけて醪を進め、そのぶん麹を徹底して丁寧に育てる。栄養の乏しい水でも酵母が働けるよう、糖化の担い手である麹の質で補うという発想である。これが後に「軟水醸造法」と呼ばれる手法の骨格になった。明治20年代のことだ。
仙三郎が残した言葉に「百試千改」がある。百回試して千回改める。彼の仕事ぶりを言い表した四文字として、いまも広島の蔵で語り継がれている。
そして特筆すべきは、この技術の扱い方だった。1898年(明治31年)、仙三郎は自らの醸造法を『改醸法実践録』としてまとめ、地元の同業者や広島の酒造組合に配布する。当時、酒造技術は蔵の生命線であり、外に出さないのが当たり前だった。それを彼は公開した。結果として軟水醸造法は広島県全域へ急速に広まり、1906年頃には県内の標準的な造り方になっていたとされる。
1907年、順位が入れ替わった
技術の正しさが誰の目にも明らかになったのは、1907年(明治40年)だった。
この年、日本で初めての全国清酒品評会が開かれる。出品数は2,138点。審査は色沢30点・香35点・味35点の100点満点で行われ、90点以上が優等という厳しい基準が設けられた。全国の蔵が実力を突き合わせる、初めての公式な場である。
結果は、それまでの序列を揺るがすものだった。灘と伏見という二大産地を抑え、優等の上位を広島の酒が占めたのである。最高位に立ったのは、竹原の藤井酒造(現在の「龍勢」の蔵)だった。
「軟水では良い酒ができない」は、これで完全に過去のものになった。不利だったはずの水は、丁寧な麹づくりと低温長期発酵という手順を得て、雑味の少ない、きめの細かい酒を生む条件へと意味を変えた。
広島がこの成果を組織的に広げられたのには、もうひとつ理由がある。広島杜氏が早くから杜氏組合を結成し、1905年(明治38年)以降、毎年のように講習会を開いて技術を共有していたことだ。個人の発明を業界の標準へ育てる仕組みが、この地にはあった。仙三郎が後に「吟醸酒の父」と呼ばれるようになるのも、彼の手法が一蔵の秘伝で終わらなかったからである。
軟水醸造法が吟醸を生んだ
低温で、長く、ゆっくり発酵させる。麹の出来に神経を注ぐ。
この二つは、そのまま現代の吟醸造りの原則でもある。華やかな吟醸香は、醪の温度を低く保ち、酵母をゆっくり働かせることで生まれる。仙三郎が軟水という制約への対処として編み出した手順は、意図せずして、香りを引き出す技術の原型になっていた。
広島の蔵が吟醸酒の分野で早くから存在感を示してきたのは、この系譜による。技術の出発点が「制約への適応」だったことは、広島の酒を理解するうえで欠かせない視点だろう。
米もまた、この土地でつくられた
水と技術に加えて、広島は酒米も自前で育ててきた。
八反草は1875年に誕生した在来の酒米で、広島の八反系品種すべてのルーツにあたる。ただし背が高く倒れやすいうえ、栽培が難しい。後継品種が登場すると次第に姿を消し、一度は「幻の米」になった。これを復活させたのが安芸津の今田酒造本店で、「富久長」の八反草仕込みはその成果である。
現在の主力は八反錦。心白が大きく良質な麹をつくりやすい、広島県を代表する酒造好適米だ。コクとキレのバランスがよく、青草を思わせる香りが出ることもある。
もう一つの千本錦は、兵庫の山田錦と広島の中生新千本を掛け合わせて生まれた広島オリジナル品種で、大吟醸向けとされる。タンパク質含有量が山田錦より低く、アミノ酸度が抑えられるため、酒はすっきりと仕上がる。
麹をつくりやすい米が土地にあること。それは仙三郎の方法論と、静かに噛み合っている。
現在の広島の蔵
賀茂鶴酒造(東広島市西条/1873年創業)は広島を代表する蔵。1958年発売の「特製ゴールド賀茂鶴」は桜の花びら型の金箔を浮かべた大吟醸で、同蔵の看板となってきた。2014年に来日したオバマ米大統領(当時)と安倍首相の会食で供され、国内外で大きな話題になった一本でもある。
白牡丹酒造(東広島市西条)は1675年(延宝3年)創業の老舗。西条でもっとも長い歴史を持ち、地元で日常的に飲まれてきた正統派の広島酒を造り続けている。
相原酒造(呉市)の「雨後の月」は、雨上がりの月のような澄んだ酒を目指した銘柄。透明感のある味わいで全国に支持を広げた。
宝剣酒造(呉市仁方)の「宝剣」は、料理を邪魔しない酒という姿勢を貫く小規模蔵。飲食の現場からの評価が高い。
今田酒造本店(東広島市安芸津)の「富久長」は、前述の八反草復活で知られる。仙三郎を生んだ土地の蔵が、その土地の失われた米を蘇らせたという符合がある。
藤井酒造(竹原市)の「龍勢」は、1907年の第1回全国清酒品評会で最高位を得た蔵の酒。町並み保存地区として知られる竹原で、いまも造りを続けている。
何と、どう飲むか
軟水仕込みの広島の酒は、輪郭がやわらかい。強く主張せず、料理の側に寄り添う性格を持つ。
その相手として最もわかりやすいのが牡蠣だろう。広島県は牡蠣の生産量で全国の過半を占める産地でもある。生牡蠣には冷やした純米吟醸を、火を通した牡蠣にはぬる燗を合わせると、磯の風味と酒の甘みが互いを持ち上げる。
瀬戸内の小魚——小鰯の刺身や、宮島の名物である穴子飯にも合う。繊細な素材を押し流さないという点で、軟水の酒は理にかなった選択になる。
温度は幅広く楽しめる。吟醸系は10〜15℃前後で香りを立たせ、純米系は常温からぬる燗にすると旨味が開く。冷蔵庫から出してすぐより、少し置いた方が味の輪郭が見えてくることが多い。
訪ねるなら西条へ
JR西条駅から徒歩圏内に、7つの酒蔵が集まっている。山陽鶴、白牡丹、西條鶴、賀茂鶴、亀齢、福美人、賀茂泉——西条酒蔵通りと呼ばれる一角だ。
白壁となまこ壁、そして赤瓦の煙突が連なる景観は、産業の風景がそのまま観光資源になった希有な例といっていい。多くの蔵が直売所や試飲スペースを備えており、蔵ごとの味の違いをその場で比べられる。毎年秋には「酒まつり」が開かれ、全国の酒が集まる。
呉や宮島と組み合わせれば、瀬戸内の食と酒をまとめてたどる旅になる。仙三郎の生地・安芸津も、東広島市の海沿いにある。
広島の酒は、土地が与えてくれたものではなく、土地の不利と向き合った結果として生まれた。やわらかく、きめが細かいという味の性格は、そのまま技術の履歴書でもある。
一本を開けるとき、百回試して千回改めた人がいたことを思い出すと、味の見え方が少し変わるかもしれない。
灘・伏見の日本酒については灘と伏見をご覧ください。
酒蔵見学のコツは酒蔵見学ガイドで詳しく解説しています。
参考: 広島県酒造組合「広島の酒の歴史」、国税庁「醸造試験所の創設」、SAKETIMES「全国清酒品評会と日本酒業界のあゆみ」、賀茂鶴酒造・東広島市観光協会の公開情報